道しるべ…





全てが、変わってしまった。

あの日、あの悪魔の薬のせいで……

作った自分が許せない、渡した自分が許せない。

彼をめぐるそれぞれの思いは、

彼を、少しずつ導いていく。



第七話⇒悪魔の解毒剤、それぞれの思い



「とりあえず、小っさい姉ちゃんはそこ座っててくれや…」

平次はそれだけ告げて、コーヒーを作るから…と台所へ向った。
三人の間に気まずい空気が流れる中で、哀はホームズをじっと見つめ、いった。

「私ね、こう見えても科学者なのよ。」
「え?かがく…しゃ?」

ホームズは困惑した顔で首を傾げた。
『科学者』と言った少女は、どう見てもまだ小学校低学年くらいだ。
少女はそんな様子を予想していた事のように、再び彼に言った。

「薬を作ってるの。作るって言っても、
私は今のところその研究しか出来てないけどね……」
「……何の、薬を?」

ホームズの問いに、哀は彼の瞳をじっと見つめた。
そして、その後隣の胡蝶に視線を移す。
胡蝶には、その視線の意味する所が分かっていた。彼女は、強く首を振った。
哀はそれを見て、ふぅと溜め息をついた後、彼に言った。

「………私にとって、大切な人を取り戻すための薬よ。」
「大切な、人を?」

それはとても、この幼い少女の口から出る言葉とは思えないようなものだった。

「大切な人っていうのは……?」

ホームズが尋ねると、少女はゆっくりと首を横に振った。

「悪いけど、言えないわ。でも…その人は私にとって、命よりも大切な人だったのよ。
けれど、私のせいで、人生を狂わされて……自分をも失ってしまった人。」

胡蝶の顔が一瞬曇った。
哀はそれに気付きながらも、話を続ける。

「だから、その人を助けるために…元に戻すために、私は薬の研究を続けているの。」

そう言った哀の瞳は、どこか切なそうであった。
そんな彼女に、ホームズが何らかの言葉をかけようと口をあけたとき、
平次がコーヒーを持って戻って来た。
どう見ても、濃いめのブラックコーヒー。
胡蝶はそれを受け取った後、砂糖を一,二杯入れて…
ホームズと平次と……そして哀は、そのままのそれを口に運んだ。
ホームズは口に含んだそれの苦さに、
自分の目の前で平然とそれを飲む少女を、驚いた顔で見つめた。

「苦く……ないですか?」

怪訝な顔で自分を見つめるホームズに、哀は苦笑した。
彼自身、よく一緒にそんなコーヒーを飲んでいたというのに。

「大丈夫よ。私…苦い方が好きだから。」

どうにも不気味に映る少女だが、その悲しい瞳は、どこか懐かしさを感じる。
いつも、悲しげな瞳で……自分を見つめていた少女の事が、おぼろげに脳をかすめる。
この家に来てから……ずっと、何度懐かしさを感じたのだろうか。
ゆっくりと目を閉じる。
この家も、服部平次という彼も……灰原哀という少女も………
全てが、懐かしく感じる。

「不思議………です。」

ホームズの呟いた言葉に、その場にいた全員が彼を見つめた。
ホームズは、ゆっくりと瞳を開けた。

「僕は、本当にこの家に来た事がないんですよね……
けど、何もかも懐かしいんです。全てが……」


何も、かも………


そんなホームズを、平次と、胡蝶と哀はそれぞれ何かを考えながら、じっと見つめていた。




私のせいで、人生を狂わされて……自分をも失ってしまった人。

だから、その人を助けるために…元に戻すために、私は薬の研究を続けているの。
そう。私の所為……だった。
彼が全てを失ってしまったのは………

彼女から、彼を奪ってしまったのは………
全て、私の所為、だった。

ずっと、彼が喉から手が出るほどに欲しがった、それ……
私は、自分の罪を少しでも償おうと、必死でそれの研究をした。
そして、連日の夜通しの研究によって……ついに、それが完成した。

けれど……その薬は………

彼に、飲んで欲しくはないものだった。


その薬は、どうあっても……彼を………


彼を、殺す……から。



「工藤君……大事な話があるから……博士のうちまで来てくれない?」

不思議そうに言葉を返す彼を説得して、受話器を置いた。
手元にある、その忌々しい薬は、これから彼に見せるもの。
けれど、彼はきっと別の選択をしてくれる。そう思っていた。
そこまでして、元の姿に戻っても、仕方が無いはずなのだから。

「灰原、何だよ話って……」

そう言いながら入って来た彼に、とりあえずコーヒーを勧めた。
そして、落ち着いたところで、私はそれを彼の目の前に突き出した。

「工藤君、はいこれ解毒剤よ。」

一瞬驚いた顔で私の手元を見つめた彼は、段々と歓喜の顔に変わる。

「やっと、やっと…出来たのか?」

明るい顔で私からそれを受け取ろうと手を伸ばす彼から、私は薬を遠ざけた。
渡したくない、その忌々しい薬を、私は彼の手から守るように握り締めた。
そのまま、その薬を握りつぶしたい欲求にかられたけれど……
どうしても、それだけは出来なかった。

「おい、何の真似だよ灰原…」

当然私からそれを受け取れると思っていた彼は、困惑した顔で言った。
ちゃんとした薬を、堂々と彼に渡したかった。
けど………

「ごめんなさい。完全な薬は出来なかったの。
あのね、工藤君……あなたには選択肢があるのよ?
これを飲まなくても……今のままで充分生きていけるでしょ?」

なるべくソフトに、その事実を伝えようと思った。
必死で、彼を説得しようとした。
だって、江戸川コナンにだって、ちゃんと仲間はいる。
元の身体に戻らなくても、彼女と一緒にいる事はできる。
今のままで、いいじゃないかと。
それほどに、その薬だけは飲ませたくなかった。
事実を告げずに、必死で説得する私の肩を工藤君は困惑した顔できつく掴んだ。

「お、おい……灰原、今更何言ってんだよ?」
「聞いて!!工藤君!!!!」

困惑する工藤君の言葉を遮って、声を上げる。
驚いた顔で、私を見つめる工藤君の視線が……痛い。
私は、言わなければならないのだ、と自分を必死で説得し、そして軽く生唾を飲んだ。

「ダメなの!!!この薬は、どうしてもあなたに飲ませたくない!!
完全な薬じゃないのよ!!!」

完全な、薬じゃない。
その薬は……

「完全じゃなくても……………」

そう言った彼に、ついに私はその事実を告げた。

「この薬を飲んだら、あなたは壊れてしまうのよ!!!」

例えもとの身体に戻れたとしても……
『工藤新一』を殺す力を持つこの薬……
データから割り出したこの薬を飲んだ時の訪れる影響は、絶望的なものだった。

「何……言ってんだ?」

顔をひきつらせて尋ねてくる彼に、全てを……説明した。

「この薬はね、工藤君……あなたを殺す力があるの。
命が無事であるかという確率だけでも50%……。
そして運良く命があったとしても、あなたは………」

そこでとまった言葉に、彼は無言のまま続きを促した。
不安そうな、顔で………

「あなたが、あなたじゃなくなるの。」
「俺が、俺じゃなくなる?」

聞き返してくる工藤君に、私は深く頷いた。

「運良く命があったとしても、あなたは全てを忘れるのよ。」
「わす……れる?」

事実を告げることが、これほど辛い事だと……初めて知った。
少しケースは違うけれど、
例えば末期癌の患者に、全てを告げるときの医師の気持ちって、
こんな感じなのかしら……と思った。
必死で彼に、説明した。

「ええ。私のことも、博士のことも…少年探偵団のことも……
そして大阪の彼のことも、あなたを待っている彼女のことも、
あなたの両親のことも……そして、あなた自身のことも……。」

全て……全てが彼の中でなかった事になってしまう。
奇跡的に出来たその薬………
奇跡が生み出したに過ぎないそれを使うためには、リスクが高すぎた。
全てが、その薬によって消されてしまう。
それが、この薬の持つ副作用だった。
身体を元に戻す代わりに……生まれたリスク。
そのうちの一つが、記憶。
けれど失うものは、思い出だけではなく……

「それだけじゃないのよ…あなたが今まで詰め込んだ知識も、全て消されてしまうの。
習慣として身につけてきたものでさえも。
あなたが……あなたという人格さえも壊れてしまうのよ!!」

全ての消去。
まっさらな、何も知らない赤ちゃんと同じような状態。
それでもただ一つ、言語だけは……唯一彼の中に残る彼の証。

けれども、それを言うつもりはなかった。
手の中にある薬をじっと睨む。
こんなもの、出来なければよかったと……思った。
今すぐにでも握りつぶして……力をいれて…握りつぶして……

本当は、彼に教えたくなかった。けれど、それもできなかった。
解毒剤を誰よりも欲しているのは、彼だったから。

彼に選ばせたかった。それを見せた上で、説得したかった。
自分で選んで欲しかった。
……解毒剤を飲まないという選択を。

けれど…………
数分俯いたまま黙り込んだ彼が、顔を上げて私に言った言葉は、
私をどん底に突き落とすものだった。

「悪いな、灰原…俺、やっぱり元に戻りたいんだ。
忘れたとしても…絶対みんなの事思い出す。
どうしても、工藤新一として蘭の元に帰りたいんだ。
あいつと、死んでも戻ってくるから…って、そう約束しちまったんだ。」

心のどこかで、彼はもしかしたらそれを選ぶんじゃないかとも思った。
けれども、その選択はして欲しくなかった。
辛そうな顔で微笑んだ彼に、言葉が出ない。

「俺はさ、みんなの事、完全に忘れるなんて出来ないと思う。
多分、心の中の何処かに残ると思うんだ。だから、忘れても……また思い出せる。」

「どうして……?それがあなたの望むことなの?
あなた、私の言ってる意味分かってるんでしょう?
それが本当の帰還なの?……工藤君っ!!」

必死で、叫んでも……
必死で、やめてとすがっても……
彼は難しい顔で、俯いたままその決意を私に伝えるだけだった。

「分かってるよ。でも俺……それでも諦められない。
お前はそれを知ってても俺に選択させてくれた。
多分、お前はもう一つの答えを求めてたんだと思うけど、
俺は、ちゃんと薬のこと教えてくれて嬉しかったよ。」
「だ……だったら………………」
「でもな、俺は何があっても……工藤新一なんだよ。」

江戸川コナンは、あくまでも仮初の存在で、自分は何があっても工藤新一なのだと。
工藤新一が、本当の自分なのだと。
そのために、どうしてたくさんの大切なものを失わなければならないの!!
どうして………

「工藤君、何があっても、分かってくれないの?」
「ごめん……灰原。これだけは、譲れない。」

そう言うと、彼は私が解毒剤を握っている手を、上から包みこんだ。

「すぐには、飲まないから……
でも、もしもの時のために……渡しておいて欲しいんだ。」

そっと、優しく私の指を解いて、その中から解毒剤を受け取った彼は、
それを大事そうに見つめた。

「灰原、そんな心配すんなって!まだ大丈夫だよ!!
その時が来るまで、絶対飲まねえって事だけは、約束しといてやっから。」


そして、私はまた大切な人を失ってしまった。
あの日から、私は今度は別の研究をはじめた。
あの副作用を消し去るための……そんな不可能に近い薬の研究。
彼を取り戻すための、研究。
彼が死んでしまったかも知れないと思ったその時も、その研究だけは止めなかった。




「平次………ホンマに何も話す気はないんやな?」

ホームズは既に平次の部屋で熟睡中。
そんな中で帰ってきた平次の父、平蔵と、彼は、
ずっとホームズの事で会話を交わしていた。

「何か言うても、しゃあないやろ……」
「何も知らんであの組織相手に何とかなるて思てんのか?」

その言葉に、平次は一瞬黙り込む。
少し悩んだ後、それを告げた。

「……けど、あいつに教えるか決めるんは、俺やない。」

自分は、彼らを守るだけだ。
自分に出来るのは、たったそれだけ。
たったそれだけの……ずっと重要な仕事。



「……ねえ。」
「………何?」

同じ部屋に割り当てられた二人は、隣同士のベッドに気まずそうに横たわっていた。
哀に声をかけられて、彼女は戸惑いがちに、返事を返した。

「彼の事。……私を信じては、くれないわよね?」

哀の言葉に、胡蝶は何も言わず、ただじっと黙って彼女を見つめていた。

「私が、絶対に元に戻すから……そう言っても、あなたは………」
「あなたの……方こそ。」

構わず話を続けようとした哀に、今度はちゃんと答えた胡蝶。
その言葉に、哀は怪訝な表情で隣で寝転がっている胡蝶を見つめた。

「私の事、信じて……くれないでしょ?」

哀はしばし黙り込み、しかし声を潜めながら言った。

「あなたは、組織の事なめてるのよ……彼と同じで。
組織を舐めた結果、こんな事になったでしょ?」
「なめてないわよ。あなた達より関わりは薄いけれど、
本当に怖い組織だって事は……分かってる。だからこそ、あの人にはまだ………」

そう言うと、胡蝶は悲しげに掛け布団を深くかぶりなおした。
哀は暫く目を細めてその彼女を見つめていたが、
やがて、ふぅ、と息をついて、自分も同じように、布団を深く引き寄せた。




少しずつ進む時の中……


少しずつ動くそれぞれの心……


事実を知る者達は様々な未来を心に描き………


そして、彼一人だけが何も知らされぬまま………


彼一人、何も知らぬまま………


ただ、ただ……優しい手によって……導かれてゆく……



それが正しい道かどうかなど、誰も知ることのない道……



それでも、正しいと信じた道へと………



ただ、優しい手によって…………



導かれてゆく。



〜第8話へ続く〜













作者あとがきv

こんにちはv朧月です!
道しるべ…ついに第7話までやってきましたが、いかがでしたでしょう。
ついに、解毒剤の副作用が明らかになりましたね!!
……まぁ、多分分かってた方のほうが多かったでしょうけど(苦笑)

さて、まだ謎は残っておりますが……
実はいくつか話の中にヒントが埋もれてたりするんですけどね…
それもまた少しずつ……。

では、今回も読んでくれてありがとうございましたっvvv
次回も是非是非見てやって下さいねっvvv
ではではっvvv

H16.09.22.管理人@朧月。