プロローグ。「さよなら」
「………なぁ、もしオレが戻れなくなったら、オメーはどうする?」
電話機から届く声は、とても遠くて。
いつもいつも、感覚だけはずっと近くにいたのに。
嘘みたいに遠くて。
冗談で言ってるんじゃないって、
たとえ話で言ってるんじゃないって、
それが、分かってしまって。
奥底から伝わる消せない感覚に、声が出せなくなった。
どうしようもない、恐怖。
受話器を持つ手が震えて、抑えても……いや、抑えている感覚すら忘れているかも知れない。
ただただ、涙がこぼれた。
「かえって、きて…………」
無言の彼に、更に恐怖は増大する。
また会えるって、そう思っていたから頑張ってこれたのに。
また昔どおり、一緒に学校に通って、一緒に家に帰って……
そういう日常が訪れると思っていたから、頑張って来れたのに。
「かえってきて…………」
もう、戻れないなんて言われたら、何を支えにこれから生きていけばいいのだろう。
ねぇ、新一…………
”愛してるから。”
この思いすら、まだあなたに伝えてない。
「今じゃなくて、いいから……いつでもいいから……ねぇ、新一。」
電話の彼が、そっと戸惑いがちに息を吐いたのが分かった。
「泣くんじゃねぇよ。………ばーろ。」
困ったような、優しい声で、彼は小さく呟いた。
ザーーーーーーーーーーーー………………
ノイズしか聞こえなくなったイヤホンを耳に押し当てて、彼はそっと目を閉じた。
イヤホンから聞こえてきていた声の余韻を、しっかりと耳に反復させる。
手にしていた赤い蝶ネクタイは、もう口元に当ててしゃべっても、何の効果も出さない。
あれも、これも……ぼろぼろになるまで、頑張ってくれた。
血のつながった祖父のような存在だった、あの博士からの、自分への贈り物。
てんで役に立ちそうにない発明ばかりしていた彼が、
自分のために必死で考えて、作り出してくれた、とても役に立った発明品の数々。
大切な、その贈り物に、幾度となく助けられた。
けれどもう、どれも元あった機能を使うことは出来ない。
「悪いな、蘭。」
イヤホンを耳から取り出して、そっとそこに語りかけた。
ぼろぼろの、イヤホン。
彼女との、最後の思い出を作ってくれた。
「あいつら……無事に逃げのびたかな。」
顔を少し横にずらすと、外の明かりが、ほんの少し漏れ出す。
だからと言って、別にどうともならない。手首が入るかどうかの小さな格子だ。
けれど、今の自分には、それすらも尊いもの。
光に当てられた顔は、ボロボロだった。
かすったような傷跡や、切れたような傷跡や、弾痕や。
もう、体を動かす事すら、困難な状態だけれど。
彼は格子から、外を見た。
外の景色が、見える。緑の葉が、空の青が。
守るべき存在だった人たちが、これからも生きていく。
この景色の、どこか先の方で。
”本望”って言ったら、蘭に怒られそうかな?
じりじりと、少しずつあがっていく温度に、室内の空気がゆがむ。
額から零れ落ちる大量の汗が、全身から吹き出る大量の汗が、
サウナの中にずっと長時間いるように、じりじりとそれを告げる。
レンガ造りの壁際に寄りかかっている背中は、痛いほど熱い。
石の隙間から入り込んでくる熱い空気と煙のせいで、息が苦しい。
”嘘でもいいから、いつでもいいから、帰って来るって言って!
ずっと待つから…………しんいち。”
泣き崩れる声が聞こえた。
必死で、すがるような彼女の、悲しい声。
最後まで、泣かせたきりだったなら、俺は…………
最低の、男だよ。
「げほっ……ごほごほっ……」
格子から入ってくる空気もあったから、
隙間から漏れてくるだけの煙も、すぐに部屋に充満する事はなかったけれど。
そろそろ、吸っている空気の殆どが、有害なものとなってきたようだ。
呼吸も先ほどより荒く、苦しい。
わけもなく、ふっと、笑いが漏れた。
それと判別するのさえ困難な、小さな微笑。
そして、彼の上まぶたは、ゆっくりと降りた。
顔に微笑を浮かべたまま、彼の瞳は、ゆっくりと暗い闇に閉ざされた。
始まりは、そう。あの日の朝だった…………。