道しるべ…



     第一話〜胡蝶の願い〜



 すたすたと、少し歩調を上げて歩いてゆく。

「あの、待っ……! 胡蝶さんっ!」

 後ろから慌ててぱたぱたついてくる彼に出会ったのは、ほんの数日前だ。組織の資料室で出会った彼と、あれから時間を見てはよく会っている。記憶を失った彼は、気がつ いたら組織に居たのだと、どこか悲しみを帯びた顔で話していた。
 ここ数日で、少しずつ判ってきた。組織の中での彼は、記憶がなくともうまくやっているようだ。一応彼は殺し屋的な役割が強いようだが、組織に命令された殺しも、様々 な方法で回避しているようだ。元から持っていた頭脳を駆使して、殺される筈だった人たちを救ってる。

「胡蝶さん! あの、僕なにか……っ」

 しばらく無視していたせいか、だんだんと彼の口調が焦りを帯びてくる。それに気づいて、胡蝶はくるりと振り向いた。顔いっぱいに明るい笑顔を貼り付けて、少し驚いた 顔をした彼に応える。

「なぁに? ホームズ君」

 すると、彼はほっとした顔で、密度の高い息を漏らした。

「胡蝶さん、酷いですよ。僕が何かしたから、怒っているのかと、思いました」
「私が?」

 息を切らす彼に、いたずらっぽい笑みをしながら聞き返す。

「だって無言のまま突然早足で歩き出すから」

 小声でそう呟いた彼は、困った顔を隠すように苦笑した。そんな戸惑う様子がおかしくて、つい吹き出しそうになるが、それはぐっと堪えた。素で笑ってはいけない。そう 自分に言い聞かせ、何とか感情を抑え込んだ所で、再び彼の目と向き合った。

「全然怒ってないわ。それより、何か思い出したことある?」
「あ、いえ……何も」

 少し沈んだ顔で俯いた彼をじっと見つめる。彼は自分自身の呼び名をホームズがいいと選んだ。そして、そう言った彼の手には、コナン・ドイルの本が握られていた。それ を見て、胡蝶は心底ほっとしたのだ。彼が、彼のまま変わっていない、という事を証明する事実だ。

「大丈夫、きっと思い出すわ。……ね、相変わらずコナンドイルの本読んでる?」
「はい。なんだか、懐かしい感じがして」

 柔らかな表情に切り替えた彼の“懐かしい”というニュアンスに、胡蝶の顔は綻んだ。

「胡蝶、さん?」

 首をかしげた彼を見て、胡蝶ははっと我に返った。

「あ、ごめんね。私思うんだけど、きっとその本記憶がなくなる前もよく読んでたんじゃない?」
「記憶が、なくなる前?」

 彼の瞳が、僅かに揺れた様子を確認してから、深く肯いた。

「そう。色々考えてたんだけど、きっとあなたはその本が……シャーロック・ホームズが好きで好きで、正義感がとっても強かった人だと思うの」

 抑えていても、伝える言葉の端々に変な力が篭る。彼は黒目を行ったりきたりさせて、動揺している様子を見せた。

「けど、僕はずっとこの組織に居て、人を……」

 震える声で、彼は呟いた。殺し続けて来た、とその後続く言葉は声になっていなくてもわかる。
 彼は、組織から教え込まれた“過去の自分”というものを忠実に信じている。受け入れたくない抵抗だけが彼の心にあるようで、それがたまに体調不良を起こさせるようだ が。まるで、何も知らない、卵から孵ったばかりの雛に備わった本能のように、それを疑える術を持たない。

 ……かわいそうな人だ。
「昔平気で人を殺していた筈なのに、どうして今は出来ないのだろうか」と、頭を抱えて胡蝶に相談した事もある。

「……そんなの、信じちゃだめ。ずっとこの組織に居たなんて、勝手に組織の連中が言ってるだけでしょ? あなたは違う。現に、一人も手にかけてないんだから!」

 胡蝶はぐっと彼の肩を掴んで言った。勿論、周りに聞こえないように声のボリュームは気を使いながら。

 だって、間違った事なんて言ってない。目の前にいるこの人は、記憶がなくなってからも、なくなる前も……誰も殺してなんかいないのよ。
 声には出さずに、胡蝶は強くそれを思った。彼が複雑そうに自分を見つめているのを、ただ見返す事しか出来ない。

「あの、胡蝶さんはどうして組織に?」
「それだけは内緒よ、でもいずれ教えるわ」

 胡蝶には、彼の問いへの答えを、話すわけに行かない理由があったのだ。彼の事をたくさん知った彼女だが、今はまだ、自分の事を話すわけにはいかない。

「僕、胡蝶さんも悪い人とは思えないんです。記憶がない僕の事も、こんなに親身になってくれて」

 彼の台詞に、顔が熱くなった。けれども、そこは必死でポーカーフェイスを繕って、彼に向き直った。微笑して、ささやくように答える。

「ありがとう」

 そんな日々だ。胡蝶と彼は組織の中で、過酷な事も忘れられる穏やかな時間を共にした。時に資料室で、時にパートナーとして。一緒に頑張って来たのだ。
 ジンから胡蝶に呼びかけがあったのは、それから少し後の事。

「アルディラ、お前何を考えている?」

 廊下の途中で、低い声に突然尋ねられた胡蝶は、無表情のまま答えた。

「別に何も」

 声には敢えて冷たさを孕ませる。
 “アルディラ”というのは、胡蝶についているコードネームだ。ラムベースのブルー系のカクテルである。
 ジンは胡蝶をじっと観察した。胡蝶は表情を変えることなく、口を結んでその視線を受けてたつ。彼女にとって、ジンは組織の中でも嫌悪の対象で、心の奥底から憎悪を覚 えている存在だった。それは、ジンこそが胡蝶の全てを壊した存在だから、である。そんな彼と同じ組織で、彼の下についている自分自身も、また彼女にとっては許せない事 でもあった。表に出すのは、うわべだけの忠誠心。
 ジンは、厳しい視線を向けたまま、胡蝶に言った。

「貴様、あいつをどうするつもりだ?」

 突き刺さる視線が、不快だった。胡蝶は、眉を寄せたいのを何とか我慢しながら、淡々とした口調で応える。

「彼とは、ただ仕事を共にするパートナーですよ。それがどうして、どうかするという話になるんですか?」

 胡蝶はまっすぐに、ジンの目を見た。いや、実際には見上げたと言った方が正しい。同じく彼女を見下ろすような体勢で居たジンは、暫くは無言のまま彼女と向き合った。 が、じっと見上げてくる視線に嘲るような笑みを零した。

「まあいい、くれぐれも妙な真似はするな」
「ええ、心配されなくても勿論です」

 足音をわざわざ廊下内に響かせて歩いて行った彼の黒い背中を、胡蝶はじっと見つめた。
 どこまで騙せているのか、どこまで気づかれているのか。思えば組織に入った頃から読めない人だった。けれど、絶対に計画を邪魔されるわけには行かなかった。

「……絶対に、あなたなんかにこれ以上人生狂わさせないわ」

 そう心に決めたのは、何も知らなかった自分自身を、泣き崩れて責めた“あの日”から。




 ジンとの話を終えて、ホームズの元へ足を運んだ胡蝶を、心配そうな視線が出迎えた。

「話は終わったわ。仕事よ、ホームズ君」

 穏やかに微笑んだものの、どこか違った雰囲気を感じ取ったのか、彼は益々表情を堅くした。

「ジンと、何を話していたんですか?」
「ちょっとね、ホームズ君が気にする事じゃないわよ」
「けど、もし胡蝶さんに何かあったら!」

 少し突き放す言い方をしても、笑顔まで浮かべても、こういう事には深く喰らいついてくる。彼のこの洞察力は、昔から変わらない。胡蝶にとってそれは、少し嬉しい事で もあった。

「本当に大丈夫よ、心配しないで。それより、仕事」

 胡蝶が軽い口調で言って見せると、彼もこれ以上の詮索は無駄と観念したのか、素直に返事をするなり、仕事の話に移った。
 殺しの仕事……ではあったが、彼はまた“いつものように”仕事を済ませた。彼から私への工作依頼はとても的確で、彼に回った仕事は今回も誰の命も消えずに終わった。
 だが、殺したフリをして助ける真似がそう何度も成功していける筈はない。近い未来に発覚するのも明らかだし、今が既に限界ぎりぎりだった。組織の人たちはそれほど甘 くはない。それは胡蝶には判りきっている事で、おそらくホームズも理解している事だろう。いずればれた時がきても、ホームズにも胡蝶にも、人を殺す事は出来ないだろう 事も。

 手遅れになる前に、彼女には考えている事があった。ずっと長い時間をかけて立ててきた計画が。




 仕事が終わった後、帰りの道で、胡蝶は彼の耳元にまで口を持っていって、囁いた。

「ホームズ君、組織から逃げましょう」

 当然の事ながら、彼は目を丸く見開き、動揺のためか微かに肩を揺らす。

「本気、ですか?」
「勿論。私たちが私たちのまま生きていく為にはこれ以外に道がないわ。ずっと、ごまかしきれるとは思わないから」

 胡蝶は強く肯き、同意を求めるようにホームズの瞳をじっと見つめた。

「け、けど。もし組織を裏切ったら……胡蝶さん、命を狙われる事に!」
「怖い?」

 動揺を隠せない様子の彼を観察し、次の言葉を待つ。嘘を言ってほしいわけではなく、胡蝶には彼の決意が欲しかった。数十秒は無言だった彼が、恐る恐る口を開く。

「いえ、僕は……けど胡蝶さんが殺されるのは耐えられません」
「ホームズ君、分かってるよね? このままいけばどの道いつかは殺されるわ。だから、逃げて生き延びましょうよ。私なら大丈夫。ホームズ君が、守ってくれるから」

 胡蝶が首をかしげて見せると、困った顔の彼はまだ煮え切らない顔のまま肯いた。




 やっとここに来て一つ目の願いが叶ったの。後はもう一つ必ず叶えてみせるわ。
 大丈夫よ、絶対に私があなたをずっと守ってあげるから。ずっとずっと、導いてあげるから。
 ねえ、いつかまた幸せな時を送れるから。全て、それまでの僅かな辛抱よ。

 目をつむって思い出すのは泣き顔と、深い悲しみに閉じ込められた哀しい顔と、

 どうにもできない、痛みと悔しさ。






〜第2話へ続く〜













作者あとがきv

道しるべリニューアルバージョン第一話ー♪

プロローグよりは、当時に忠実です。今回はホント、文章を変えただけな感じ。
だってなんかここはさぁ、変えようがなかったんだもの。
でも、次回は多分ガラッと変わるんじゃないかと思われます・・・ていうか、変わると断言します!(もう次話は改訂終了済み^^;)

この第一話は、まだ皆さんが戸惑いの多い胡蝶さんっていう人柄を垣間見てもらおう計画でありまして。
胡蝶はね、相当重要なキャラなので、皆さんの中でわけわかんない人のままずっと居るのは困るのよ。
うん、何を考えてるんだか判らない人でいる分には良いんだけどね。
とりあえず、彼女が望んで組織にいたわけではない事は、今回のお話で判った筈と思います。
なら、どうして組織に居たか、ですね。わざわざホームズをけしかけてまで逃げたい組織に。
さて、どうしてだと思いますっ?(^^)

もしまぁ、感想なんぞいただけるのはいつでも大歓迎ですのでvv
リニューアルバージョンプロローグと第一話の更新となりましたが、新しくなって初めて見るって方も、昔更新してたとき知ってるって方も、お読み下さった方皆ありがとうございましたーv

次話もまたまた、乞うご期待アレv




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H20.07.22.管理人、朧月。(H16,08.03。改訂前)