道しるべ…



 息を切らせながら、少年は顔に出来たかすり傷を拭った。頬から、ずきんと刺すような痛みが走る。足元がおぼつかないせいで、ここにたどり着くまで何度もこけた。そうして増えた掠り傷が、既に彼の体に複数出来た銃創以上に目立つ。

 それでも、先ほどまで彼は走っていた――手を引いている大切な存在を守るために。

「行き止まりよ! もう、これ以上は……」
「……もう、諦めるしかねーって事か」

 自分と同じ背格好の少女に険しい顔つきで告げられ、彼は自嘲し目を閉じた。判断は、一瞬。それで十分だった。
 

「ちょっと、何……っ!」


空気を裂くような声がその場に響く。そんな少女の抵抗を振り払うように、彼は真摯な表情を見せた。そして、ゆっくりと口を開く。


「来るべき時が来たんだよ。あと、頼んだぜ。そいつの事も、俺の身勝手で閉じ込めた奴の事も。助けは呼んであるから、そいつを何とか無事に元の居場所に帰してやってくれ。勿論おめーも、無事に……」

 彼女が庇うように抱きかかえる黒髪の女を、彼は目に焼き付けるように見つめた。その閉じた瞼が、僅かに動いた気もしたが、もうこれが最後だと彼には判っていた。


「……また、いつかきっと」


 彼の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。自分が覚えて居られる最後に、彼女に向ける精一杯の表情だ。

 変わらないものはある。たとえ、これからどんな運命が待ち受けていたとしても。







 ああ。思い出す記憶ん中で、いつも泣かせてばっかだったよな。けどまた、もしも出会えたとしたら……そしたらきっとまたお前を好きになる。

 

 もしもまた再会出来たなら、きっともう一度、俺はお前に恋をするんだ。

 だから、どうか――その時は声をかけて俺の名を呼んで。

 どこにいくか分からない俺を、探し出して、見つけて呼び止めてくれよ。


 今この瞬間、例え全てを忘れちまったとしても……

 いつか目の前に再び現れる、お前は俺の道しるべだ。

 

 

 

 

 

 

 

      プロローグ〜胡蝶とホームズ〜

 

 

 閉鎖的なその空間で、いつも薄暗さを感じていたような記憶だけはある。壊れた電灯、テレビから漏れる明かりだけが、部屋の明るさを決めていたような、そんな場所だ。
 テレビから流れる映像は、どれも吐き気を催すほどどす黒く陰鬱なものばかりだ。実際、何度気分を悪くして目を逸らした事だろう。


 何度も何度も、聞かされた。自分がいわゆる正しい道を歩んでいる人間ではないという事を。


 実際、そのビデオに映っている自分は、とても残酷な行動を平然としている。感情も感じられないような目で、悲鳴と許しを請う声にも聞く耳持たず返り血を浴びる。
 確かにそんな映像があると言う事は、おそらくそれは真実なのだ。けれども、脳が……心が拒絶する。信じるな、こんな自分はどこにもいなかった、と。誰かが、頭の奥で必死で呼びかけている気がする。
 次第に意識が薄れて、視界が暗くなる。自分は悪い病気なのではないかと疑わずに居られないほど、意識が不安定だった期間があった。

 それが彼にある最初の記憶で、気づけばその部屋からも自分の意志で出歩くようになっていた。

 彼は自分でも説明出来ない意識の奥で、本を好む傾向を見つけた。この閉鎖的な組織の施設内にも、大きな資料室がある。小説もずらっと並んだその場所が好きで、意識がはっきりして以降は、そこに通いつめた。
 色々な訓練もさせられたし、変な知識もたくさん詰め込まれる事になった。その合間の読書という時間だけが、彼を癒し安らがせたのだ。

 そしてその日もまた、嫌な事からようやくひと段落ついてそこに足を運んだ。手には今お気に入りの推理小説が一冊。椅子に腰掛けて早速ページを開く。あまり読まれないようで、本に挟んだしおりはほぼ自分専用だった。

 

「こんにちは、隣いい?」

 

 組織の中では珍しく、温かみのある声色を感じて、彼は目を見開きながら顔を上げた。そこに立っていたのは、やはりこの場には少々不釣合いに穏やかで可愛らしい面持ちの少女だった。
 
 年齢は、そう。自分と同じ十代後半。綺麗な長めの黒髪を後ろに縛り、色白肌の頬の部分を僅かにピンク色に染めた、切れ長の大きな瞳の女性だ。
 

「……もしかして、荷物用だった?」
「あ、いえ! すみません。どうぞ」
 
 暫くぽかんとその彼女を見上げていると、催促を含んだ疑問符が返ってくる。彼は慌てて向かって右側の椅子上にある荷物を自分の足元に置き、椅子を引いた。
 彼女は上品な仕草でそこに腰掛けると、彼を覗き込むようにして微笑んだ。

「ありがとう」
「いえ、僕の方こそ場所とっててすみませんでした」
 

 彼は苦笑いついでに頭を下げた。そして、自分の覚えている世界の中に感じた事がない暖かな空気に、若干戸惑いも抱いていた。ぼんやりと彼女を見つめていると、彼女もその視線に気づいたようで、彼に顔を向ける。先に話しかけて来たのは、彼女の方だった。

「あなたは、ここに来て長いの? 私たちくらいの年齢で構成員って言うと、結構生まれつき組織に居る人が多いみたいだけど」
「あ、はい……あ、いえ。あの、そうらしい……です」

 しどろもどろになりながら、彼女の問いに曖昧な答えを返した。答えが煮え切らないものなのは、別に彼女の優しい問いかけ方などのせいではない。
 案の定、その回答を聞くなり彼女は眉をひそめ、怪訝な表情を見せた。

「らしいって……あなた自身の事よ?」
「はい、そうなんですけど……実は僕、ここ数ヶ月分の記憶しかなくて。それ以前の事は話で聞いた位しか……それによるとやっぱり僕は昔からここに居たみたいなんです」
 

 そこまで喋った所で、彼は俯いた。頭には、あの発狂しそうな程何度も繰り返し見せられた映像が浮かぶ。知り合いという知り合いにも会えた事がない自分には、その映像が情報の全てだった。

 数秒の間、隣にいる彼女の存在を忘れていた。お決まりの、ビデオへの拒絶反応が起こっているようで、血の気が失せ、脳が揺れるような感覚と共に、地面が歪んだ。思わず手を口元に持っていく。吐くものなどない為、ただ自分の手の震えだけが伝わった。

「ねえ、ちょっと! 大丈夫? 顔色真っ青よ。気持ち悪いの?」

 正気に戻ったのは、彼女の声のおかげだ。気遣うように優しい声と共に、背中を何度か撫でるようにさすられた。その手から伝わる体温が何処か懐かしくて、すっとめまいが治まる感覚を覚えた。
 ゆっくり顔を上げて彼女に視線を合わせると、どういうわけか不安定になりかけた精神状態もまた穏やかなものになる。

「大丈夫です、ありがとう。たまに気分が悪くなるのは、精神的なものですから。今はもう、たぶん君のおかげで落ち着きました」
「……そっか、よかった」

 安堵のため息が彼女の口から漏れたが、まだ僅かに心配そうに眉を寄せている。安心させてやろうと笑って見せると、微かに苦味のある笑みが返ってくる。

「あのさ、さっきの話って、記憶喪失……って事?」
「はい、だから僕は探してるんです。僕の事をよく知ってる人を。友人でも、家族でもいい。居るはずですよね、生まれた頃からここに居たなら、この組織に」

 少し言葉の意味を図りかねたのか、彼女は一瞬目をぱちくりさせた。が、理解するなりその目が大きく見開かれる。

「って事はもしかして、記憶がなくなってから一度も知り合いに会ってないの?」

 少女の問いに、胸がぐっと締め付けられる感覚を覚えた。笑みにもまた、悲しみが映る。

「何も判らないんです。知識だけは無駄についたけど、結局誰なのか、名前すらも教えてくれなくて。ただ過去の自分が映ったビデオばかり、数ヶ月前まで毎日のように」
「それって、辛くない?」

 彼女は、周りに聞こえないように気遣ってだろう、身を寄せると声を潜め、低くした。真剣な声色だからこそ余計、胸に響く。

 少しだけ考え込んだ彼は口を開く。

「勿論、辛くないって言ったら嘘になりますよ。でも、」

 そこで一度言葉を区切った彼は、今度は力強い笑顔を作った。

「信じてるんです。根拠はない筈なのに、誰かがその約束をしてくれたみたいに強く。いつか誰かが見つけてくれると。多分大切な存在だったその誰かと、またきっといつか再会できると」

 更に目を大きくした少女を、視線からずらす事なくじっと見つめた。彼女は真剣な顔で俯き、しばらく何かを考え込む姿勢をとった。その態度を不思議に感じて首を傾げると、彼女は突然顔を上げ、明るい声をだす。

「判ったわ。私、あなたに協力してあげる」

 思いもよらない台詞に、彼もまた一驚を喫した。

「協力、ですか?」

 確認するように、再び彼女に問いかけると、深い肯きが返ってきた。

 

「ええ、折角出会って話を聞いたんだから、力にならせて。あ、いい遅れてたわね。私は胡蝶。鈴木胡蝶(すずき こちょう)って言うの。あなたの事はなんて呼べばいい?」

 

 握手と求めるように、差し出された手をじっと見つめ、彼は考え込んだ。彼女との間だけでいい、自分を呼応する名前を頭の中から探した。そして、一つの固有名詞が浮かぶ。

「……ホームズ」
「ホームズ?」

 予想をしていなかったのだろう。彼女はきょとんとした顔で聞き返してきた。彼は肯く。

「はい。僕が気に入ってる本に出てくる名探偵の名前なんです。実は今読もうと思ってたのもそれで。あ、コナン・ドイルさんて人の本なんですけど、知ってますか?」
「ええ、知ってるわ。有名だもの」

 それだけつぶやくと、彼女はふわっと懐かしいような優しい表情に変わる。

「……シャーロック・ホームズだよね」
「はい。そうですか、あの本有名なんですね。……胡蝶さんは読んだ事ありますか?」
「ううん、私本は好きだけど、推理小説とかあんまり読まないの」
「そう、ですか」

 微かに寂しさを感じて俯くと、胡蝶は申し訳なさそうに苦笑した。けれどすぐに明るい笑顔で彼女は言った。

「とにかく、よろしくね。ホームズ君」
「はい」

 返事をした彼の心はどこか明るく満たされていた。それは、彼にとって初めての“知り合い”だった。これが、これから始まる物語の中で、大きな絆となる出会いとなるのだ。

 これから始まるのは、切ない思いを巻き込んだ、記憶を探す旅だ。 彼女と、彼の、全ての思いが交錯する、大切なモノを探す、物語。



 黒の中に居た少年と少女……



 それぞれの思いを抱えて、もっとも憎んでいる筈のその場所で出会った二人。



 運命の糸は紡がれてゆく。







〜第1話へ続く〜













作者あとがきv

えーと、道しるべリニューアルバージョンプロローグです〜♪

あとがきもリニュしたくて、打ち直しているのですが、日付に(ノ゜?゜)ノびっくり!!
なんと、H16.07.20となっておりまして。
今が平成20年でしょ、だから。えーとえーと!

って、考えなくてもわかるわい!

四年以上前なんだ〜、このプロローグアップしたの。どおりで、文章と構成がありえなくつたない筈だよ^^;
18歳当時の私だよ。これが・・・・・・と(^^;
ってか、そんな頃に始まってた話が、今もまだ終わってない怪奇(汗)

このお話はね、改訂するならいろいろ変えたいところが多すぎたので、今まで一切手付かずでした。
でも、ホントアイディアっていうか、それ自体は私的に凄く気に入ってるお話なので、まるで伴ってない文章力を読み返すたびに頭を抱えたくなったのが道しるべです(^^;
はっきり言ってね、ストーリーを考える力だけは、昔の方があったと思うよ。うん、出したくて仕方がなかった頃だけに。

さて、ホームズ君と胡蝶さん。この二人が物語を引っ張っていきます♪
もしも、このプロローグで・・・・・・全てが見えたという人は、多分よっぽど(というか恐ろしいほどに)勘のいい方なのでしょうね。
でもコナン小説なんだから、判る部分位は判ってくれるよね?
当然ながら、オリジナルではなくコナン小説、ですのでv
CPについても、もう最後まで信じてくださいとしか言えないなー、これは。
プロローグでも、これからも、方々に伏線をちりばめておりますが、謎解きの最も重要なヒントは、これを考えたのが私だってこと。
私の性格を考えて貰えば、おのずと答えが見つかるのではないでしょうか(^^)

そんな、お話です。
前よりは文章や構成面や、展開的に相当見れるものになったと思う反面……だからこそ、プロローグからして前よりずっときつい描写になってたりして、ひかれないか心配ですが(^_^;

どうぞ、最後までお付き合いをよろしくお願いいたしますv
 




H20.07.22.管理人、朧月。(H16,07.20。改訂前)